鼻くそとマドンナと彼女

高校時代にとてつもない美女がいた。僕らの学年で四天王と呼ばれていた四人の美女の中でも一番の美女だった。当然かなりモテていて、サッカー部の長身イケメンと付き合っていた。一方で当時の僕は極度の対人恐怖症で、クラスメイトから挨拶などされてもまともに返せないほどだった。クラスでは「まったく喋らないやつ」で通っていた。そんな僕でも女の子と付き合うことには興味があって、例のサッカー部のイケメンが心底うらやましかった。幸い羨望を抱いていたのは僕だけではなくて、彼女と付き合えるのなら小指を切り落とされてもいい、と豪語するつわものもいた。

結局3年間僕は一人の女の子と仲良くなることもできず、卒業を迎えた。卒業式を終えてそれぞれが別の道に進み始めた四月、卒業クラスで飲み会が開催されるというメールが届いた。友達と出かけることもほとんどなかった僕は当然おしゃれな服など持ち合わせていなくて、なにを着ていくべきか途方にくれていた。結局、母親と姉が勧めてくれた、今考えれば特段おしゃれでもないけれど、大学生としてはぎりぎり許容範囲内の、安物の青いジャケットとベージュのチノパンを着て出かけた。出かける前に鏡の前に立って風貌を確認していると、姉が「いいね。話しかけやすい好青年って感じ」と自信を持たせてくれたので、まあまあ悪くないかな、と納得することができた。鏡の中の顔は相変わらず不愛想なままだった。

同窓会と言っても、まともに人と喋れない僕なので、親しい友人などもいなかった。僕は卑屈な気持ちで電車に揺られた。会場は新宿の個室居酒屋のような場所で、部屋にはカラオケが設置されていた。歌には少しだけ自信があったので、普段会話で発散しかねている思いを全てぶつけるかの如く、尾崎豊の15の夜を全力で歌った。周りは見るからに引いていた。引いているクラスメイトの中にはあの美女もいた。

会が終わった朝方、朝ごはんを食べようという誘いを断って、正確には誘われるより前にそっと抜け出して、僕は始発電車を待つホームに向かった。今日も人とちゃんと話せなかったな、と一人反省会が始まるのはいつもの事だった。ぼんやりとその夜の光景を反芻していると、すれ違いざまに声をかけてくる女性がいた。あの美女だった。一人反省会をしていた僕は、朝方の駅のホームの静けさに完全に気が緩んでいて、小指で鼻くそをほじっているところだった。僕は突っ込んでいた小指をなるべく恥ずかしげのない、ゆっくりとした動作で抜き取って、ばいばい、と声をかけてくれたその子に、おう、とぎこちなく答えた。彼女は軽く微笑んで、自信に満ちた後ろ姿ですたすたと歩いて行った。

あれから何年か経って、一人の女の子と付き合った。彼女はとても辛抱強い子で、無口でレスポンスも悪い、喋ってもつまらない言葉しか発さない、壊れたラジオみたいな僕と一緒にいることを楽しんでくれるような子だった。僕は彼女に依存しきって、誰にも話したことのなかった悩みをだらだらと打ち明けた。それまで一生かけて喋った分と同じくらい、下手なりに彼女に喋った。

彼女と色んな場所に行って、色んな事について話した。自分をさらけだすことに少しだけ慣れて、他の人と喋ることにも大きな抵抗を感じることはなくなった。人と一緒にいる息苦しさも、それを失ったときの寂しさも分かった気がした。自分から人と仲良くなろうと努力し始めた。友達が増えた。いつのまにか自信ができて、色んな事にチャレンジするようになった。

3年付き合って、僕は彼女に振られた。

振り返えれば僕は、自分が彼女から何を吸い取れるか、そればかり考えていた気がする。3年間血を吸いとらせてあげた彼女は、愛想が尽きてその鬱陶しい蚊を優しく振り払ったようだった。

この3年で僕は良い方向に変わることができた。そう思いたいけれど、気が付けば相変わらずあほ面を張り付けて、小指で鼻くそをほじっている僕がいる。あの美女が明け方のホームで声をかけてきたときも、付き合いたての彼女と青臭い約束を交わしたときも、いつだって鼻くそがこびりついていたのかと思うと、僕はいっその事この小指を切り落としてしまいたくなる。わかっている。小指を切り落としたって、誰も喜んではくれない。小指を切り落としたって、血が出るだけだ。正直に言えば、他の指もすっかり汚れていることにだって、僕はもう気付いている。手のひらまで汚れている。

手のひらを見つめながら、僕は考える。一人で考える。

汚い両手でも何かが出来るんじゃないか。そう思ったのはきっとその時が初めてだった。